【公式】志登神社 ~糸島の総鎮守・式内社。空海(弘法大使)ゆかりの地。~

【公式】志登神社 ~糸島の総鎮守・式内社。空海(弘法大使)ゆかりの地。~

境内のご案内

冬至の夕日の神秘

西方に向かって社殿が建てられている志登神社は、冬至に夕日が沈む時、鳥居から社殿を結ぶ参道が一直線になります。志登神社を中心に、夏至・冬至の日の出・日没の方角、及び東西南北には伊都国の重要な山々があることから天体観測の地でもあったと考えられています。

  • 冬至の夕日
  • 冬至の夕日
  • 冬至の夕日

太陽観測石・玉の井

社殿向かって右手前に太陽観測石と玉の井(井戸)が祀られています。玉の井は元治2年(1865)正月元旦に奉納されたものです。太陽観測石は伊都国時代の祈祷師が太陽を測るために用いた石とされています。

  • 太陽観測石・玉の井
  • 太陽観測石
  • 玉の井

御神木「神命木」

台風で倒れるも緑豊かに生きている古木です。奇跡的な、神授の森の神秘を感じさせる御神木として「神命木」と名付けられ、パワースポットとしても親しまれています。

  • 御神木「神命木」
  • 御神木「神命木」
  • 御神木「神命木」

三柱社

三柱社

社殿向かって右手に鎮座する三柱社は、天照大神を祀る皇大神宮、須佐男命を祀る八坂神社、十域別神と倉稲魂神を祀る志々岐神社を合祀しています。

松本天満宮

松本天満宮

社殿向かって左手の松本天満宮は、菅原道真を祀っています。志登字松本にあった天満宮を太平洋戦争中、食料を作るため遷座したもので、跡地は農地として活用されました。

厳島弁財天

厳島弁財天

境内入り口右に鎮座する厳島弁財天は、福徳・諸芸能上達の神、水の神、蓄財の神として信仰される弁財天を祀っています。

大石大神(立石大神)

大石大神(立石大神)

第二鳥居と注連掛石の間に掛かる小さな石橋は、細語橋と呼ばれています。元は神社の入口(約1km)にあったもので、膝行の人が足が不自由で立てなかった人が、この橋の上に来ると立派に足が立ったとの伝説が残されています。元禄3年(1690)3月の社殿建立の際に、境内に移されました。立石大神とも大石大神とも称され、神池の畔の入口に万病平癒を願って祀られています。

鬼瓦

鬼瓦

平成26年(2014)に焼失した社殿で使用されていた拝殿の鬼瓦と本殿に使われていた梢殿の鬼瓦です。神命木の隣にあります。

碑文

碑文

式内社志登神社の歴史、社殿、いわれ、祭典などを記した碑文です。二之鳥居前の左手にあります。

古文書

古文書

天正9年(158111月)の再建に当たり原田隆種(了栄)への願い書などが代々宮司家であった岩隈家に文書として残されています。

岩鏡

岩鏡

豊玉姫命がこの岩の上でくしけずり給いし処と伝えられています。いにしえには「岩鏡」と呼ばれていましたが、昭和20年(1945)の調査の結果「長川支石墓」と名付けられました。志登神社の拝殿から南200mにあります。(⇒Map)

小宮址

小宮址

志登神社を建て直す時に祭神を分霊した仮の宮殿。志登神社西北100mの所にあります。(⇒Map)

志登支石墓群

志登支石墓群

この遺跡は糸島市北部の田園地帯、標高約3メートルの低地にある墓地群です。発掘調査は戦後間もない昭和28年(1953)に行われ、わが国における支石墓研究の貴重な1ページを飾ることとなった著名な遺跡です。

調査では、弥生早期から中期(約2500から2100年前)にかけての支石墓10基、甕棺墓8基などが発見されており、支石墓のうち4基が調査されました。支石墓とは遺体を埋葬した上に大きな上石を置くお墓です。元々は朝鮮半島によく見られるお墓ですが、弥生時代の始まった頃に日本にその作り方が伝えられました。上石は花崗岩や玄武岩を使用し、大きいものは長さ約200センチメートル、幅約150センチメートル、厚さ約60センチメートルにも及びます。埋葬施設は素掘りの穴(土壙)や木棺であったと考えられます。副葬品として6号支石墓から打製石鏃6点、8号支石墓から柳葉形磨製石鏃4点が出土しています。支石墓は弥生早期から前期(約2500から2200年前)に造られたと考えられます。

支石墓に副葬品が納められるのは非常に珍しく、特に柳葉形磨製石鏃の出土は朝鮮半島との交流を物語る貴重な資料です。

松永冠山『蒙古襲来絵馬』

松永冠山『蒙古襲来絵馬』

松永冠山は主に京都や福岡で活躍した日本画家です。明治27年(1894)2月、怡土村井原(現糸島市井原)の生まれで、本名は関蔵。文展や日展に複数回入選した他、旧友泉亭の杉戸絵を描くなど活躍しました。

明治44年(1911)京都市美術工芸学校絵画科に入学、大正3年(1914)には京都市絵画専門学校本科に入学しました。大正6年(1917)に第11回文展に「静境」で初入選、以降、数多くの官展に入選を果たし、昭和22年(1947)からは日展委員を務めました。昭和19年(1944)に帰福し、西部美術協会委員、福岡県美術協会常任委員、初代糸島美術会会長などを務め、福岡県の日本画壇の主導者として活躍しました。

拝殿に掲げられてる『蒙古襲来絵馬』は、松永冠山の奉納によるものでしたが、平成26年(2014)の火災により焼亡しましたが、再建を祝して平成28年(2016)正月に復刻されたものです。

寿亀碑

寿亀碑

境内入り口の注連柱の前で参拝者をお迎えしています。御祭神の豊玉姫命は、浦島太郎伝説における乙姫ともされる神様です。乙姫に連れられた浦島太郎は、海亀に乗って龍宮へと誘われたと伝えられています。志登神社では「寿亀」として社碑を奉り、皆様の多幸を迎え入れています。