空海との所縁
志登神社は空海(弘法大師)の所縁の宮としても広く知られています。
志登神社には神宮寺として蓮華院照光寺が建てられ、明治初期まで照光寺住職が宮司坊を務め、照光寺を本務社としていました。照光寺の開山祖師である権僧都阿闍梨法印𡒝永和尚は、初代志登神社の大宮司・岩隈式部種義の弟で、真言宗開祖の空海(弘法大師)と南岳山東長密寺で修行した友と伝えられています。大同元年(806)日本で最初の密教寺院として東長密寺を博多に開山した空海は、縁ある志登の照光寺を訪ねたと伝えられています。
水害に見舞われることの多かった照光寺は、神社の書付・宝物を東長密寺に預けていたとされますが、東長密寺が元弘3年/正慶2年(1333)元弘の乱の兵火に焼かれたことで宝物を消失し、以前の歴史を語るものを亡失します。東長密寺は照光寺に逃れることとなり、3年後に再建されますが半分に満たない規模となり、後の戦乱の中で荒廃します。江戸期に入ると第2代福岡藩主・黒田忠之が真言宗に帰依し、東長密寺は現在地に再興されることとなり、菩提所とされました。
その際、照光寺に疎開させていた仏像、什器を元に再建は行われました。その由緒から空海所縁の神社としても知られています。尚、現在の照光寺は、明治期に途絶えていたものを明治後期から大正にかけて銘を頂き、別途、再建されたものになります。